富山県富山市豊田本町の模擬原爆・パンプキン爆弾着弾地点で7月26日、亡くなられた方々の遺族、地域住民、「富山大空襲を考える会」の僧侶や「富山大空襲を語り継ぐ会」の会員らが出席して、追悼式が開かれました。参列者は犠牲者の死を悼み、平和への祈りを捧げました。
追悼慰霊式の概要や様子
パンプキン爆弾の犠牲になったのは、鈴木善作さんの祖父善作さん(鈴木さんと祖父は同名)をはじめとする地域住民16人。戦後、故・善作さんの息子で鈴木さんの父善蔵さん(故人)が退職金で自宅敷地内に「平和祈願之碑」を建立。毎年7月26日、爆弾が落とされた午前8時から追悼式を開いています。
孫の鈴木善三さんは「父善蔵はそれまで一切、戦争の話をしてこなかったが、碑を建立する頃から戦争や爆弾の話をするようになった。それだけ重く辛い体験だったのだと思う。この平和祈願之碑は、平和のためにもこうした出来事を伝える重要な役割を持った。私もこの出来事を伝え続けていきたい」と語りました。
この日は朝から気温がぐんぐん上がり、富山市ではこの時、気温30度になりました。近所に住み、当時小学生だった男性(86)もこの猛暑のなか参列し、「爆弾が落とされたのを間近に見ました。このようなことは二度と起きてほしくない」と静かに手を合わせました。「平和祈願之碑」は、模擬原爆・パンプキン爆弾と判明する以前の1988(昭和63)年に建立されましたが、碑面には以下のように刻まれています。
大東亜戦争被爆地の記
一九四五年(昭和二十年)七月二十六日朝八時頃アメリカ軍の爆撃機B29が飛来し豊田のこの地に爆弾を投下しました
そのために鈴木善作(当時四十九才)ほか十五名の者が被爆犠牲者として尊き生命を断ちました
類にとつて戦争ほど醜く嘆き悲しまずにいられないものはありません
再びとこのようなことの起ることはなく未来永遠に人類が平和でありますことを請い願つてこの碑を建立します
一九八八年(昭和六十三年)七月二十六日
富山県内に着弾したパンプキン爆弾の調査について
富山県では7月26日の豊田本町に先立って、1945年7月20日に富山市中田(目標:不二越製鋼東岩瀬工場、現在:中田公民館西側)、富山市森(目標:日満アルミニウム東岩瀬工場、現在:岩瀬スポーツ公園北)、富山市下新西町(目標:日本曹達富山製鋼所、現在:富岸運河西岸)に3発のパンプキン爆弾が着弾。このうち、富山市森地区では、朝鮮人労働者の宿泊施設を直撃し、死者47人、負傷者40人以上と言われる甚大な被害がありました。8月2日未明の午前零時36分から111分間にわたり空爆「富山大空襲」が行われ、約3000人が亡くなり、88000人が負傷しました。
戦後、長い間、7月に富山市に落とされた4発が模擬原爆・パンプキン爆弾だとは知られていませんでしたが、「春日井の戦争を記録する会」金子力さんや、弊会の工藤洋三共同代表らが1990年代にパンプキン爆弾に関する米軍記録の内容を伝え、また富山市内の現地調査や市民参加による「富山大空襲のつどい」でも講演をするなどし、この史実が地元の方々に知られるところとなりました。その後、地元の市民団体の方々を中心に、模擬原爆・パンプキン爆弾の実相を被害住民の側から掘り起こし、広く伝える活動が続いています。これまでの活動に敬意を表します。
おわりに
筆者は今回、追悼式に参列させていただきました。また現地でお会いした方々からお話をお伺いしました。引き続き市民の皆さんと連携しながら、こうした歴史の掘り起こしや継承に向けて、ともに活動していきたいと思います。
(共同代表・藍原寛子)
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