福島市主催「ふくしまヒューマンフェスティバル2024 人権と平和展」が、同市AOZ(アクティブシニアセンター・アオウゼ)で開催され、この中で同市渡利に投下された模擬原爆の破片が展示・公開されました。
福島市では1945年7月20日午前8時30分過ぎ、B29により水田に模擬原爆・パンプキン爆弾が投下されました。国民学校高等科を卒業したばかりで、家業の農家を手伝って水田で作業をしていた斎藤隆夫さん(当時14歳)がこの爆弾の直撃を受け亡くなりました。市民は大きな1発の空襲と、それに伴う少年の死に強い衝撃を受けました。
亡くなった斎藤さんの父が「死んだ息子の仇(かたき)だ」と、長年、破片を自宅で保管していましたが、その後、菩提寺である近くの瑞龍寺に寄託されました。現在は同寺が管理していますが、毎年、市主催の「人権と平和展」で展示・公開され、模擬原爆についての歴史が紹介されています。
1945年7月20日のその朝は、本来ならば斎藤さんの姉のミチさんが田の草を取りに行くところでした。ところが小雨がパラついてきたので、姉思いの隆夫さんは代わりに田んぼに出て犠牲になりました。ミチさんは、「私の代わりに弟は爆弾に殺されてしまった。優しくて頭の良い弟だった。戦争はだめだ。ばかな人間がやることだ」(ビッグイシュー日本版、2021年9月15日・415号より)と話しています。
7月29日にはAOZの会場に市民が訪れ、15キロもある模擬原爆の破片を両手で持ち上げてみたり、色や形をじっくり観察していました。会場を訪れたある男性は「今日は模擬原爆の破片が展示されるというので、これを見るために来ました。模擬原爆が投下された当時、父は出征し、母が工場で働いていましたが、模擬原爆の投下で、『次に狙われるのは工場だ』と騒然となり、工場周辺に住んでいた私たち一家は別のところに避難しました。避難先は小さな土間の小屋で身を寄せるように過ごしました。今でもあの当時を思うと、暗い気持ちになります」と話していました。
模擬原爆が投下された当時を知る人は年々減ってきていますが、福島市で模擬原爆の破片が公開されることによって、この男性のように、模擬原爆にまつわる祖父母や父母、知人らの体験が思い起こされ、他の人々へ語り継がれるきっかけとなっています。弊会のメンバーで、和歌山県有田市の山中での金属片の発掘作業を行いましたが、その破片は大小さまざまで。形もそれぞれでした。発掘されないままの金属片はいまだ無数に山中に眠っているはずです。人の数だけ歴史があるように、破片は無数で、一つとして同じ形がないように、一人ひとりに歴史や出来事、そして思い出があります。模擬原爆の破片は、そうした一人一人の戦争を語り続けているかのようです。
また、福島市では来年も同時期に展示・公開することを予定しています。(文責:藍原)
追記:本件に関連して、藍原共同代表が執筆した記事をご紹介します。
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